小村希史の作品について思うこと

 

私は自分の肉体というものをどこまで感じられているのだろうか?  それが自分の体だと感じること以上に親近感を持っているわけではないし、同時にそれ以上によそよそしく感じているわけでもない。私たちの知覚はこの肉体に基づきコントロールされている。諸々のイメージが体のあちこちから生まれ、それらが一つの不可視で不安定な形象へと結び付いていく。だがその形象を繋ぎ止めておくことはできない。時に既知の器官や名前の無い体の一部となって硬化する。するとそれは固形化や不動化といった変化を遂げたり、あるいは結晶状態となったりする。すなわち知覚が消滅してしまうのである。ところが仮にこの名も無い器官が不安定な状態、つまり活発で開放的なままだとしても偏見に囚われたり隠したりすることなく、自分自身の肉体の範囲外に存在するものに対して客観的で生き生きとした眼差しを向けることは出来ないのである。肉体とは永久的に私たちの知覚に影響する。そして肉体は思考に対して自身のコンセプトを抱えることを強いているのであり、それは死ぬまで続くのである。 

 

小村希史の絵画の中で、外側と内側、以前と以後、現実とフィクションという相反する要素が出会っている。それらは同等の権利を有し、同時に存在する。この同時性と序列からの解放とが相俟って緊張感が生じている。この時点で芸術は自発的に語り始める。すなわち、西は東と、内は外と、堅さは柔らかさと、抽象主義はリアリズムと、醜さは美しさと、不真面目は真面目と、ディレッタンティズムは完全主義と、生者は死者と、そして有限は無限と語り合う。この対話が始まりさえすれば、芸術もまた動き出す。芸術から成る肉体には生命が宿る。そしてここでようやく生を享けた肉体に精神が生じ、思考が形成されるのである。 

 

—ヴォルフガング・ミュラー 

(ディー・テートリッヒェ・ドーリス) 2009年

 

 

 

 

 

 

 

“Thoughts on Marefumi Komura’s Work”

 

Disparate elements meet in Marefumi Komura’s paintings-outside and inside, before and after, reality and fiction. They coexist equally and simultaneously. The dissolution of hierarchies in these moments of synchronicity creates a force field wherein art speaks up spontaneously: West talks to East, inside to out, the hard and the soft, the abstract with the realistic, the ugly with the beautiful, the funny with the serious, the dilettante with the perfectionist, the living and the dead, the finite and the infinite. Once this dialogue is set in motion, art also takes off. The body, from which art arises, comes alive. And hereon, spirit forms in the living body and thoughts take shape. 

 

—Wolfgang Müller (Die Tödliche Doris) 2009